昔の自分が今の自分を見たらどう思うか、

なるべく失望はさせたくないものだなと思うわけですが

色んな事情を考慮するタイプの子だったので大丈夫かな、と思いつつ

将来、酒で失敗するとわかったら流石にけっこう落ち込むだろうな

 

子どもの頃の酒の印象は父のせいで最悪だった

父はよく酒を飲み過ぎてわけわかんなくなって帰ってきては

大声で「チクショー」とか「バカヤロー」とかわめくし、殴られたこともあったし、

そのわけわかんなさは家庭という枠を突き破って、

花見の席とかで友達に場が凍るような失礼なことを言って友達をなくしてたこともあった。

しかも私の同級生のお父さんとかだからたまったもんじゃなかった

中高生になるにつれて、私は「理性的」「理論的」であることこそ美しいと思うようになった

ていうか、かっこいいし、自分も常にそうありたいと思い続けてきた。

だからか知らんけど理系教科の才能は全くなかったけれど、無理してでも理解したかった。

そうあることが正しいし、損もしないし、いいことしかないじゃんと憧れ続けた。

 

高校卒業の頃とかは、「大学に入ってお酒飲んだらどうなるんだろうね」みたいな話を友人とすることもあって

私は父が友人を失くしてるのを見て、酒飲んだらみんな私から離れていくんだろうかとか考えてた。

残念ながら私は父と性格が似ているから、酒を飲んでも父と同じようにならないという自信はなかった。

考えるだけでこわいし、他人に醜態晒すなら死んだ方がマシだから酒は飲まないでいよう

飲んでも酔わないようにしていよう、とか思っていた。

 

のも束の間、大学に入り、結局けっこう酒を飲むようになった。

夏の月島でエクストラコールドを飲んだ時の感動は忘れない。あれから嘘のようにビール好きになった。

飲みに誘ってもらえて色んな人と仲良くなれるし、

お酒飲めてよかった〜と思うことはけっこうある。

が、

初めて失敗したのは2年前の10月、ライブハウスだった。めっちゃ泣いたしさむかった、思い出したくない。

2回目は馬肉バル、先輩が口につっこんでくれた指の味とか彼氏がタクシーで迎えに来たとかでまあまあいい思いした

けど、二日酔いで次の日バイト休んで母親に本気で怒られた

その日は落ち込みながらピンポン見て過ごした。ゴミだった。

3回目は去年のクリスマス、今年も近づいてきたのでよく思い出して死にたくなる

クリスマスはもはや聖夜とかじゃない。その後、年末年始、鬱だった。

4回目は最愛の先輩たちの卒コン、思い出すとうつむいてしまう、先輩が居る最後の飲み会、最高にもったいないことをした、死ね

後輩に蒸し返されてビンタしそうになったこともある

ちゃっかり4回も失敗してた。

他人に醜態を晒すなら死んだ方がマシなら4回は死んでいる。

 

潰れてもひとりでスタイリッシュにどうにかできればいいけど、それはできず

全部人に介抱してもらった、だいたい申し訳なくて号泣する、泣くくらいなら死ねと思う

では私は友人を失っただろうか、よく考えると落ち込むのでよして、

ざっと見た感じ、大丈夫そうである。たぶん。

私が気にして、気にし続けても、友達でいてくれているのだ。たぶん。

この、たぶん、という不安が酒で失敗した罰なのだろう。嫌われてもおかしくはない。

しかしながら、私は自分がそうなるまで、潰れる人のことを軽蔑していたが

自分の時、友人や先輩がしてくれたように、やさしく、なんでもない風に手を差し伸べられるようになった。

友人が潰れてわけわかんなくなっても嫌いになったりはしなかったことは本当である。

これが必要なことなのかどうかはわからない。

 

大学に入り、私はあんまり理性的、理論的であることにこだわらなくなった。

理性、理論だけではどうにもならないことがたくさんあることが大学生活を送る中でわかったからである。

もっと感覚的で、ぐちゃぐちゃした曖昧で醜い部分が世の中というか、人間にはある、残念ながら自分にもあるとわかった。

今は他人のそういう部分を見るのが割と好きで、興味が尽きない。

他人を好きになる余地が増えたのでけっこういいことだなと思っている。

深く考えてはいなかったけど、お酒飲むようになったのも、理性、理論を重視しなくなったからかなと思う。

 

でも自分に理性的じゃない部分があることはあんまり人に見られたくない気もするし、

だからこそ、見せるのは、

お酒でわけわかんなくなってる時じゃない方がいいな、みたいな

 

浅く考えると酒のめて得かなって思うけど、

深く考えると酒は別に自分をさらけ出せるみたいな魔法も何もない

ただの飲み物でしかないかも。